[演出、美術、照明が溶け合う]
白い舞台に映った方眼紙の罫線は美術の領域と感じる人もいるだろう。森の中の木漏れ日の影も、舞台を見ていて、どこまでが演出なのか、美術なのか、照明なのか、それぞれの範疇が判然としない。そこが総合芸術の所以なのか。
『天保十二年のシェイクスピア』(04年Bunkamura)では、イギリスのグローブ座を模したセットだったので、屋根もついていて、照明を吊る場所が制限された。
「天井が塞がれちゃったから、後ろから当てるようにしました。セットプランの打ち合わせの時、(中越)司が気を使って、“照明用に天井開けましょうか”って言ってくれたけど、しなくていいよって自分のクビを締めるようなことを言ってしまった(笑)。その代わり、後ろや脇に、すき間を空けてほしいと、その幅を指示させてもらったんです」
幕兵衛と妻のシーン(マクベスとマクベス夫人の“眠りを殺した”という名シーンに重なる部分)の、家のすき間からのぞく外の嵐の明かりなどは、不穏な雰囲気を盛り上げた。
「苦労したのは地下室の場面。地下室って基本的に暗闇で、すき間から光が入るのも少ない。でも、あの場面では金貨が重要で、光りがないと金貨が目立たない。蜷川さんが俳優にロウソクをもたせてくれて助かりました」
舞台稽古で気づいて直していくことも多々ある。舞台稽古で変更になることも。『間違いの喜劇』(06年彩の国さいたま芸術劇場)の時は、舞台稽古で、演出プランが変更になり、猥雑感を出したいという蜷川の希望に沿って、原田は、客席に小さな電球をつり下げた。
「鏡を使った装置だし、鏡にうつりこまなきゃ意味はないと思って。猥雑感と言われて、赤や黄色いのサーカスの照明みたいなものを考える照明家もいると思う。でも、明かりの質をあまり変えると、喜劇を演じる俳優の透明感がなくなる。透明感をもっていて、なおかつある猥雑さをと思うと、裸電球だったんです」
長年蜷川と供に働いているからこその判断だ。が、時には蜷川に却下されることもある。
「『白夜の女騎士』のラストで少年が飛翔する場面では、僕は青い照明を考えていたんです。『ブレードランナー』の青空をイメージして。でも、蜷川さんは赤で行きたいと言った。闘争の果てに空を飛んで脱出したものの、実は地上はまだ地獄だよって。戦争はあちこちで起こっているし…っていう意味ですよね」
「芝居の中に照明が上品に溶け込んでいますよね」と言ったら、「そんなに上品じゃないし。違和感は採り入れていると思うよ」と否定しつつも、初歌舞伎照明となった『NINAGAWA十二夜』では、通常の歌舞伎照明機材ではなく、ムービングを使ったにも関わらず、違和感なく歌舞伎の青白(※歌舞伎の照明の基本的なもので、舞台上にあるものがフラットに見える)世界に馴染ませることができたと思うと振り返った。
明かりは、時に自然に世界に馴染み、時には論理的に世界を解説する。
プランナーとして蜷川の作品に始めて関わったファッションショーの仕事が83年。その一年後の84年。ニナガワ・スタジオ(GEK-ISHA NINAGAWA STUDIO)の活動がはじまった。原田はそこの一員となって、実験を行い、商業公演にもノウハウをフィードバックしていった(詳細は再録参照)。
「スタジオの照明はノーギャラだったけど、絶対誰にも譲りたくなかった」
と言うが、昨今はめっきりスタジオ公演が行われていない。商業公演が続くが、蜷川との仕事はやっぱり絶対譲れないのではないだろうか?
「すっごくいい仕事したなって思った時に、これで終わりにしたいなって思うこともあるんですよ(笑)。でも、71歳の蜷川さんがまだまだ走り続ける以上は頑張らないといけないと思います。そういえば、クリント・イーストウッドは76歳、なんというヴァイタリティーなんでしょうか」
作品ごとに永遠にこのインタビューも続きますよ、と言ったら、困った顔をしたが、イヤだとは言わないでくれた。
(2006年10月取材)
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