――20年ぶりに演出された『タンゴ・冬の終わりに』の初演(84年)に出演した、若い俳優たちから希望者を募って、〈GEKI-SHA NINAGAWA STUDIO〉(現ニナガワ・スタジオ)ができたそうですね。
「その頃、ぼくのまわりに、演劇の勉強をしたいっていう若者が増えてきて、教室をやっていたんだよね。最初は吉祥寺の貸し稽古場を使っていて、飯田橋や神保町……と転々としていた。ちょうど『タンゴ〜』の稽古を、まだベニサン・ピットのできてなかった頃のベニサンの稽古場(1スタ)でやっていた頃、紅三の専務取締役の亘理幸造さんが稽古を見に来てくれたんです。時々、見に来て、怒ってばかりいるぼくに、頭を冷やせとかち氷をくれたり(笑)、コロッケを差し入れてくれたりして、やがて“あなたはほんものだから力を貸してあげたくなった”と言って、ビルの最上階にぼくの事務所兼稽古場を作ってくれたんです。女子社員の共同部屋みたいな場所で、畳やお風呂があったのを、改築して。敷金礼金はなくて、とても格安な家賃で貸してくれました。そこでGEKI-SHA NINAGAWA STUDIOの活動がはじまって、ベニサン・ピットもできて、ぼくらは一番最初からピットを使えたんです(旗揚げ公演は、ベニサン・ピットで行われている)。具体的には、どうやって劇団員を募ったのかは覚えてないんだけど…『タンゴ〜』で芝居がうまかったやつには声をかけたのかな。あとはオーディションをやったりしたと思います」
――そこに集った若者は、蜷川さんにとっての新たな同志だったのですか?
「俺は同志なんて言葉使わないよ。でも、自分の劇団・櫻社が解散(74年)してから商業演劇を中心に仕事をはじめたけれど、どこかでいつかは、若者たちと、60〜70年代と同じように、小劇場というか、実験的な演劇をやる集団をつくりたいなぁと思っていました」
――個人で必要な時だけ人材を集めるという方法ではなく、集団があったほうがいいものなんですか?
「無名の若者が世に出るためには、何か場がないといけないんですね。ぼく自身も、外部の制約の多い仕事から解放されて実験的なことをやる場がほしかったんです。実際、スタジオでは、経済効率やスターシステムを考えて公演を作るのではなく、自分たちですべて責任を負ってきた。チケットノルマもないし、儲かったら利益はすべて均等に配分していました」
――民主的な。
「直接民主主義な(笑)。過激な実験の場でした。なにしろ、劇場の四分の三が演技空間で、四分の一が客席なんてこともあって、採算なんて考えていない。未来に対して実験していたんですね。『白夜の女騎士〈ワルキューレ〉』(06年Bunkamura)で、俳優達が奈落から飛び出してくるような演出も、スタジオ公演でまずやったものです」
――ここでたくさんの若者が育ちましたね。
「俳優では、勝村政信、松重豊、演出家になった鈴木裕美などが巣立っていき、スタッフでは、原田保、井上正弘、中越司、井上尊晶、明石伸一などと、必死で実験して作ってきた。原田なんて、どんなに他の仕事が忙しくても、スタジオ公演は人に譲らないって言ってましたね。実験の場は渡せない、やりたけば、自分で劇団を作ればいいんだって(笑)。そうやって、みんなが育ったし、自分の目に狂いはなかったと確信できますね」
――特に今、スタッフの方々は脂がのって、蜷川さんとのコンビネーションが本当にいいですよね。
「打ち合わせしなくても、作業が進むからね。装置は装置、照明は照明じゃなくて、スタッフ皆の想像力(創造力)が絡みあってひとつの舞台になっていくわけで、いい光が当たらないと装置だってよく見えない。すべては密接に絡み合いながら、転がっている感じです。そうしながら、皆でもっと違うところに行きたいと思っているんですね」
――GEKI-SHA NINAGAWA SUTUDIOやニナガワ・カンパニー、ニナガワ・スタジオなど、名前が何年かごとに変わっていますが、そのわけは?
「そういった実験精神だとかいろんなものを共有できなくなって、なんとなくこの場に就職しているような安定した雰囲気になると、一旦解散して、新鮮な風を入れるんです。時々、急に辞めさせてしまったりすることもありますが、それも、その人が何を選択するかを問うてのこと。たとえば、ぼくの仕事と他の仕事がかぶった時にどっちを選ぶのか。他の仕事をとるなら、もうぼくのところにいる意味はないだろうと。ぼくを選ばないといけないと言っているわけではないんです。人間って、常に小さな選択をしながら生きていくものでしょう。選んだものが、その人自身を決めていくことだから。でも、大きなチャンスがあったら外へ出るべきだと思ってますよ。同時期に目の前にあるものの何を選ぶかっていう岐路は人生にたくさんあるじゃないですか。両方できたら、それに越したことはないと思うけど……」
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